【1】増大する医療費負担−−−今日の公衆衛生的問題の背景
世界中の多くの国々で,保健医療サービスに対する費用の負担が増大する原因として次の三つの大きな原因があげられる.
(1)人口の高齢化
(2)患者の期待
(3)新知識・新医療技術
これらが需要を喚起する
(1)人口の高齢化
人口の高齢化が保健医療サービスに対する需要を増大させている要因のうちでも,最も重要なものであろう.例えば,日本ではゴールドプランの実施のために,社会的なケアを追加する必要性が出てきた.しかし,人口の高齢化は社会的ケアを増大させるだけではない.高齢者は病気に罹りやすいので.人口中に占める高齢者の割合が増加すると,小児科と産科を除くあらゆる保健医療サービスに対する需要の増大をもたらす.心臓手術.放射線治療,関節置換術は,高齢者に提供される三大ハイテク医療技術であり,これらの保健医療サービスは人口の高齢化にともなって需要も増大している.
(2)患者の期待
第2に保健医療サービスに対する患者の期待がある.一般社会における“consumerism(消費者主義)”の高揚傾向を反映して,患者の保健医療サービスに対する期待も増大してきている.患者はより高い健康水準を求め,提供される保健サービスのレベルについても,より高度のものを期待する.保健医療サービスが手軽に受けられ,しかも良質のサービスが受けられることを期待する.さらに,期待が高まるということは不満や苦情が高まることでもあり,訴訟件数の増加にも連なる.これは特にアメリカで著しく,最近はイギリスでも同様だが,他の先進諸国に共通するこのような傾向が日本でも生じないはずがない.重要な点は,高齢化と医療への期待の増大が相まって,将来の高齢者のものの考え方や行動パターンが現在の高齢者とは異なってくると思われることである.例えば,今日の高齢者が加齢による当然の結果だと思っている健康上の問題でも,期待が増大した将来の高齢者にとっては.治療可能なものと認識されるようになるかもしれない.このように,期待の増大が保健医療サービスの需要を増大させるのである.
(3)知識の増大・医療技術の進歩
負担の増大する原因の3番目は,知識の増大・医療技術の進歩だ.新しい技術として機械類や,手術,麻酔,医薬品などが次々に開発されている.高齢化の一方で技術も進歩しているために,例えば,冠動脈バイパス術の平均年齢は今や70歳となった.麻酔が安全に行われるので,高齢者の手術も安全に行えるようになってきた.股関節置換術も,1回だけでなく,2回3回と実施される場合もある.
保健医療サービスヘのニーズとは,有効な予防・治療手段がある保健医療の課題と定義することができる.したがって,有効な予防・治療手段の増加とともに,ニーズの数も増加する.有効性の根拠が必要になってくるのはこのためである.
【2】医療費負担増大によるインパクト
医療費負担の圧力が高まることによってもたらされる,保健医療サービスに対するインパクトの強さは,その保健医療サービスがどのような基金によって賄われるかにかかっている.イギリスのように,保健医療費に限界があり固定されている場合には,保健医療サービス相互の間での緊張関係が高まり,それによる圧力は強大となる.保健医療費にあまり限界がない場合や固定されていない場合には,医療費は確実に増大する.これはアメリカではすでに起こっていることであり,日本でも起こりつつある.
日本の保健医療システムについて英語で書かれた出版物を読み,外部者として見ている限りでは,保健医療サービスに関するコストの動向に対する関心を示す記載が極めて乏しい.これは,北アメリカや他のOECD諸国が現実の問題に取り組み,また将来の問題に対しても憂慮して予防策を講じようとしているのに比べると,対照的である(訳註:実際には医薬品に対する甘い評価以外は,医療費高騰の抑制のために政策決定者が講じてきた政策は強大であり,それによってこそ,他の先進諸国に比して日本人一人当たりの医療費の少なさが世界の注目の的になっている).
【3】医療費の増大圧力の抑制のために
−−−正しいことを適切に実施する
1970年代のイギリスでは,生産性の向上が主要課題だった.医療の需要者も供給者も,ともに,入院日数を減少させたり専門的な介入のコストを抑えることで(例えば,医療供給面で医師の代わりをナースが行うことなど),保健医療費の切下げに努力していた.1980年代に入り,消費者の期待が高まるにつれて,保健医療サービスの質を改善する動きが出てきた.そして.現在のイギリスの医療にとっては,質の改善こそが第一の課題となっている.イギリスは,質の評価方法に関する日本的アプローチから多くのものを学んだ.多くのイギリス人は「改善(kaizen)」という言葉を知っており,保健医療サービスの質の改善に「改善」の原則の適用を試みようとしている.
生産性と質の向上をはかるためには,物事をよりよく行う必要があるが,マネージメントに関する古くからの慣用句は,これには二つの要素があることを示している.すなわち
”doing the right things,and doing things right”
「正しいことを行うことと,それを正しく行うこと」 である.
いま,イギリスでは「正しいことを行うこと」の方に,強力なドライブがかかっている.すなわち,質の高い研究によって「有効」であることが実証された治療法だけを実施しようという動きであり.これが今”evidence based medicine”と呼んでいるものの主要な日的である.
【4】科学的根拠に基づく保健医療とは
科学的根拠に基づく保健医療(EBM)とは,入手しうる最も確かな証拠をもとに,医療の意思決定を行おうとする保健医療マネージメントのひとつのスタイルである.
意思決定は.科学的根拠だけに基づいて行われるわけではない.個々の患者や一般大衆の求めるニーズや価値判断も考慮に入れなければならないし.限りある資源によっても規制される.そして,この三つの要素は,図1に示すようにお互いにオーバーラップしているのである.
EBMは図2に示すように,いくつかの異なる要素からなる.
科学的根拠に基づく意思決定は,大きくは二つに分けられる.つまり,個々の患者を対象にした意思決定,「科学的根拠に基づいた医療」と,ある患者群あるいは一般市民を対象にした「科学的根拠に共づいた保健医療のマネージメント」である.
【5】既知の情報と行動とのギャップ
「科学的根拠に基づく意思決定」が目指す主要な目的は,われわれが知っていることと行うことの間にあるギャップを出来るだけ狭めることである.意思決定を行う人々の多くは,確証に基づき,根拠ある医療を実践していると信じているが,実はそうでないことを示す事実がある.一例として,「血栓溶解療法」について考えてみよう.この治療法は今日の医学が達成した大きな進歩の一つなのだが.イギリスでは,次のような事実が報告されている.
【6】ギャップが生じる原因
意思決定者や医を批判することはたやすいが,知っていることと,行うことにギャップが生じるのには,それなりの原因がある.医療者向けに出される専門雑誌・情報の種類があまりにも多い.
事実・根拠を探す際の障害には以下のようなことがある:
註:その他:上にあげられていないものとして
※A.メーカーのパンフレット類(大きなバイアスがあり,信用できない)
※B.インターネット内の情報(玉石混交でその利用には注意が必要)
コクラン共同計画では,コクラン図書館を提供してこれらの問題を克服しようとしている.コクラン共同計画の提供する「コクラン図書館」は,インターネットを通じて,世界に提供されるようになる予定である.
【7】われわれは何をすべきか?
実施すべき3つのステップがある.